野崎島に建つ旧野首教会は、野崎島のちょうど中心にあたる、
小高い丘の上に残るレンガ建築の小さな教会です。
教会が建つ「野首集落」は潜伏キリシタンが移り住んだと言われる集落で、
野崎島にかつてあった3つの集落のうち、舟森集落と共に信仰が深かった地域とされています。
旧野首教会は、集落に住む17世帯の信者たちが貧しい暮らしを続け、力を合わせて費用を捻出し、
数年をかけて建てた本格的なレンガづくりの教会です。
禁教の時代に厳しい弾圧を受けながらも信仰を守り抜き、
長年の苦難を耐え抜き信仰の自由を手に入れた人々の、
抑圧からの解放と喜びという崇高な精神性の象徴といえるでしょう。
それから80年あまり月日が流れた1797年(江戸後期・寛政9年)、五島藩が土地開拓の為の民を大村藩に依頼し、外海(そとめ)地区から100名ほどの人々が海を渡りました。そのほとんどが、当時行われていたキリシタン摘発から比較的逃れやすいとされた新天地「五島」での暮らしを望んだ潜伏キリシタンであったと云われています。そして外海から野崎島に渡った2組の家族が、野首集落に住み着くことになりました。
人々は急な斜面、風の吹き付ける厳しい環境で苦労して野首の地区を切り開き、ひっそりと祈りの暮らしを続けていました。しかし、禁教の世の悲劇は、野崎の人々にも訪れます。
1865年(元治2年)、大浦天主堂での「信徒発見」の知らせは野首の信者たちにも届き、翌年、長崎県の大浦天主堂を訪ね、その後一部の人々は洗礼を受けたと言われています。しかし禁教の世の中、その信仰の復活は小値賀の押さえ役所の知る所となり、野首で8戸と舟森で7戸の50数人全員が平戸に連行され、強制改宗を迫る拷問を受けました。拷問に絶えかねて島民たちは改宗を申し出、翌年に野崎島に帰ることを許されました。しかし戻った彼らが目にしたのは、荒らされた集落と家財道具などすべて略奪された我が家でした。迫害から解放されたのは1873(明治6年)2月の高札撤去後でした。キリシタンたちは、長きに絶えた潜伏の時を経て、ようやく信仰を公にすることができるようになりました。
厳しい弾圧に耐え、故郷から遠い未開の土地へ移り住みひそやかに暮らしてきた人々にとって、海に向かって堂々と佇む野首教会の姿は、信仰を貫いた精神の象徴として、誇りに満ちて目に焼き付いたことでしょう。
教会としての役目を終え、人々の消えた集落に佇みつづけた旧野首教会は、その後、小値賀町が重要な文化財として1985年(昭和60年)に全面改修し、1989年(平成元年)には長崎県指定有形文化財に指定されました。
2007年(平成19年)には、野首・舟森集落跡とそれを結ぶ里道を加えた「野崎島の野首・舟森集落跡」が「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」としてユネスコの世界遺産暫定リストに追加されています。※2016/9より資産名称は「野崎島の集落跡」及び「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に名称変更。
また、平成23年(2011)には「小値賀諸島の文化的景観」として国の重要文化的景観に選定されています。
人々の祈りが刻み込まれた旧野首教会は、その歴史的価値を後世に伝える為、現在も野首の高台から海を見つめています。